食事はビュッフェスタイルだった。あまり食欲はなかったが一応食べた。
そうした労働者たちのランチのテイクアウト用だろうか、
レストランにはサンドイッチなどの包みがいくつも置いてあった。
朝食を摂ると、包んであったサンドイッチ、マフィン、ポテトチップスの袋を2個ずつ貰っておいた。 ほんの思いつきだったが、のちにとても役に立った。
部屋に戻る。
泊った部屋はせまいシングルルームだった。
仕事で北極海まできて、一日働いた後、
この小さな部屋で故郷へ帰る日を指折り数えるのはどんな気分なんだろう。
昨日空港で助けてくれたテリーの少し寂しそうな顔を思い出した。
部屋の小さなテレビをつけるとCNNがずっとイギリスのテロのニュースを繰り返し流していた。
私はそのテロが未遂ということに気がつくまで随分かかり、
どうして犯人逮捕の映像ばかりで被害者や現場の映像が出ないのだろと
不思議に思いながら画面を眺めていた。
テロの影響で飛行機の手荷物に水の入ったボトルが持ち込めなくなったのを
昨日の朝、アリーが教えてくれた。
そして、リップクリームなどもどうやらだめらしいと付け加えた。
その後、アラスカエアの窓口で確認したら念のために判断に迷うようなものは
持ち込まないでと窓口の女性が言っていたが、彼女自身も困っている様子だった。
簡単に荷造りを済ませて、ホテルのフロントに行く。
空港まで送ってもらうことになっていた。
空港に着くと多くの人でにぎわっていた。
昨日私の窮地を救ってくれたテリーもカウンターの列に並んでいた。
私を見つけると微笑を浮かべて小さく手を振ってくれた。
私は帰国後、彼にお礼の手紙を書いた。
空港の建物の端でアリーとレオがゆっくり荷造りをしていた。
とっくにチェックインの時間を過ぎているはずだが、
のんびり作業をする彼らを見て、旅慣れた男たちはさすがだなと妙に感心した。
今日は無事にチェックインのコールがかかり
アリーたちと話しながら飛行機に向かう。
アラスカエアの機体に描かれたイヌイットを見てアリーが
「おい、シマ。あれはチェ・ゲバラか?」と言ったので笑ってしまった。
実は私もそう思っていたのだ。
飛行機の中で久しぶりの冷えたビールを飲む。
ビールは別料金で5ドルだったが、100ドル札しか持っていなくてスチュワードの男性に迷惑をかけてしまった。
アラスカエアはビール別料金5ドル |
デッドホースからフェアバンクスまで1時間ほどのフライトだった。
さんざん苦労して自転車でやってきたが、飛行機に乗ってしまえばあっけないものだ。
フェアバンクス到着。
しかし、荷物の一部、というか自転車が別便で来るらしく届かなかった。
アラスカエアの女性に確認すると、宿に送るから泊るところを教えてほしいという。
私は「Go North」の名を告げた。女性はすぐわかったようだった。
アリーとレオはロサンゼルス経由でオランダに帰るらしい。
ロスまでのフライトに少し日があるようだ。
彼らはまだフェアバンクスでどこに泊るのか決めていないらしいので、「Go North」をすすめ電話番号をおしえてやると早速予約していた。
空港を出ると外は雨。
雨はさほど問題ではないが、自転車がなくてはGo Northまで行けない。
仕方ないのでタクシーを拾った。
タクシードライバーは別のホテルと間違えていたが、なんとか「Go North」に着いた。
前回泊った時からわずか10日余りだが、「Go North」に戻ってきてなんだか嬉しく、そしてほっとした。
今回はテントサイトにテントを張った。
雨が降りやまず、食事はどうしようかとキッチンでボーっとしていた。
昼食に朝もらってきたサンドイッチなどを食べた。
キッチンの外の軒下で雨を見ていると
ベンチに座った男性に話しかけられた。
「日本人だよね?」
その人は名をケンジさんといい、ユーコン川をホワイトホースからサークルまで
カヌーで下ってきたらしい。すごいな。
聞けば日本人のパドラーは多いらしい。
「なぁ、ビール飲む?バドならあるよ」
私は遠慮せずもらった。
今思えば、ああして「Go North」で昼間からビールを飲みながら
雨を眺め、旅する人と話をするなんてなんて自由な時間だったんだろうか。
ふいにケンジさんが言った。
「ねぇ、カレー食いたくない?うさん臭いのじゃなくていわいる普通の日本のカレー。作らない?」
「いいですね。料理には少し自信があります。きっとあの巨大なフレッドマイヤーならカレー粉も手に入るんじゃないですか。」私は即答した。いいアイディアだと思った。
雨が弱くなるのを待って、二人でフレッドマイヤーへ行く。
カレー粉はアジア系食品のコーナーにエスビーのカレー粉があった。
「あった!!」二人で大きな声を出してしまった。
そのほか野菜と肉売り場でキチンを買い、フレッドマイヤーを後にした。
ケンジさんは米炊きには自信があると言い、私はカレーを作った。
明らかに二人分より多かったが、まあいいだろうということになった。
雨がやんだのでファイヤーピットで焚き火を囲んでカレーを食べる。
うまい。当り前か。
そのままさしてうまくないバドワイザーを飲んでいると
もう一人日本人がやってきた。
まだ夕食を食べていないという。
「キッチンにカレーとご飯あるからレンジで温めて食べなよ」
ケンジさんが言うと、感激してキッチンに消えていった。
その日本人を加えてさらにバドを飲んだ。
その日本人男性は岡崎出身で渡辺さんと言った。
聞けば、私がスタッフで参加した野田知佑を招いたイベントに参加していたらしい。
それは参加者わずか30名程度のイベントだったのだが
まさかその参加者とこのアラスカで出会うとは。
渡辺さんの住まいを場所を聞くと、だいたいすぐにわかった。
「あぁ、五味八珍とかあるへんですね。」と私が言うと
「ギャー、アラスカくんだりまで来て『五味八珍』とか言われちゃったよー」と渡辺さんが叫んでいた。
悪いことをした。。
渡辺さんは今日寝坊してしまい途方に暮れていたが、
私がダルトンハイウェイで会った「ネーチャーイメージ」の牧栄さんがなんとかしてくれるらしい。
渡辺さんのブログから転載。右が渡辺さん。 |
※渡辺さんもまた自身のブログに当時の様子を書いている。こちらもぜひ見てほしい。
http://yukon780.blog.fc2.com/category13-2.html
:::::::::::::::::::::
三人でファイヤピットで焚火を囲み、さしてうまくないバドワイザーを飲み続けた。
誰かが探るように聞いた。「ねぇ、遺書って書いた?」
「書きました。」私は答えた。
そう、
死ぬ気はさらさらなかったが、
もしかしたら死ぬかもしれない、本気でそう思ったのだ。
私は家族と友人と当時好きだった女性に遺書を書いた。
「もし、私が自分の求める極北の地から戻らぬことがあるならば伝えて欲しい、、、」
そんな書き出しで始まる遺書だった。内容はさしてない。
あのとき、もう失うものは何も無かった。
ただ、伝えきれぬ想いを伝えることが出来るなら、そう考えたのだ。
遺書は必要なくなった。
死の恐怖に直面したが、私は生きて極北から戻ることができた。
「なんとなく、こう、もしかしたら、ってあるじゃん。
だから会社の後輩には全部引き継ぎしてきたし、彼女にも遺書書いたよ」
誰かがそう言うのが聞こえた。
アラスカの荒野に向かう人はこうした覚悟を誰しももっているのだ。
「知らない人からしたらバカばよね。でも、ねぇ?」
その言葉に私達は深く頷いた。
友人達に「なに、生きて帰るさ」と軽く言ったものの、
実際は自分が死ぬことも視野にあった。だからこそ、遺書を書いた。
「バド終っちゃたな。おれジャックダニエルあるんだ。もってくるよ。」
ひとりがそういって席を立った。
私は薪をくべ、炎を見つめた。
今なら笑い話だ。
でも当時、アラスカにいたときは本気だった。
ただ少なくとも当時の私たちにはそのぐらいの覚悟があったんだと思う。